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「怠ける権利!」への所感 [雑多なつぶやき]

遅れてやって来た『怠ける権利!』への所感 Q


 このフリーターユニオン福岡では、おおよそ昨年の前半にかけて、小谷敏『怠ける権利!』を用いて学習会を行った。私は数回ほど出席しただけだが、同書自体は通読している。本来ならば、昨年の通信紙に学習会に参加しての感想などを寄せるべきであったろうが、自分の中で同書への評価が定まらない部分があり、結局まとまった原稿は書けずじまいとなった。
 学習会そのものは、テキストを超えた内容の議論が飛び出すなど、興味深いものだった。それに『怠ける権利!』という書物そのものも、ところどころに垣間見える甘さや曖昧さを除けば、首肯しうる内容の主張を持っていた。それでは私は何に引っかかっていたのか?
 その疑問に答える前に、私に私自身を定義させてほしい。私は――うつ病などのせいもあって――とっくに「人生から降りた」人間であり、その意味で、もうずっと「怠ける権利」を行使している人間である。この本はなるほど「怠ける権利」を称賛するものではある。が、率直に言って、この本が説くようにはとても生きられない、そう感じたのだ。
 この本にはある意味で、1990年代の「だめ連」の活動を思わせるところがある。当時はそれなりに話題になったはずの「だめ連」のことを覚えている人は、今どれくらいいるのだろうか?現在でもそのメンバーの幾人かは活動しているはずだが、風の便りを聞く程度である。
 ともあれ、当時社会に出ようとしていた私にとって(あるいは結局社会に出られずに閉塞するしかなかった私にとって)、「だめ連」関係の書籍は、一定の安らぎを与えてくれるものだった。
『怠ける権利!』にも似たような効果があるかもしれない。それは競争社会から脱落してもいい、働くことに至上の価値を置かなくてもいいというメッセージを孕んでいる。私がもう一世代若ければ、この本を読んで素直に反応できたのかもしれない。

 だが、私は今人生が始まってもいないのに、その折り返し地点を過ぎようとしている年齢にさしかかっている。ある詩人の比喩を借りれば、私の青春が暴風に吹きさらされたようなものだったとしたら、これからは自分の庭に残ったわずかな果実を、集めていかなくてはならない年齢である。そのような状況にあっては、本書の説く内容は実践的に難しい。
 また、私が疑問なのは、この本が結局のところ、自己責任論を否定しつつも、社会的な問題を個人の問題に還元してはいないか?ということだ。または、この本が、ポスト経済成長期の資本主義に、人々の生き方を合わせようとするものではないか?という点だ。
 上のような論評は、おそらくいささか乱暴なものだろう。本書ではベーシックインカムや就職氷河期世代(私がまさにその世代だ)の諸相など多岐にわたる話題を扱っているからだ。だが、多少強引にでも結論めいたものを出させてほしい。
 さしあたっての結論は二つである。一つには、広い意味での仲間たちと、グループを組むことが重要ではないだろうか?このフリーターユニオン福岡もその一つであるように。
 もう一つは、もし「怠ける権利」を社会に要求するとしたら、それに対する保障がなければいけないのではないだろうか?つまりは、個人の生き方に還元するのではなく、あくまでも「怠ける権利」を、社会に対する要求として捉えていくことが重要ではないだろうか?
 いずれの方向にせよ、それは資本主義社会の中で、別な生き方を模索していくものとなるであろうし、引いては社会のあり方をなにかしら変えようとするものであるはずだ。(Q)



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